虹の向こうで

五月の半ば頃、僕の愛犬のミカド君の様子が突然おかしくなった。
後ろ足の動きがたどたどしい。頭を撫でても、胸を撫でても、時折痛そうに
「キャン!」
と泣く。
食欲がなくなり、心配になった僕は獣医さんに診てもらった。
「椎間板ヘルニアかな?今日のところは痛み止めの注射を打って、あと鎮痛剤とか内服薬も飲ませてみてください。しばらく様子を見ましょう。」
病院から帰ると、痛み止めが効いたのか、彼は僕のベッドに飛び乗った。痛みがなくなったせいか、しっかり歩く。
僕は他にもサクヤという名前の犬を飼っていて、その子とも元気にはしゃいで遊んでいた。
「こらこら、痛み止めのおかげなんだからな。すぐにそんなに無茶しちゃダメだぞ。サクヤもミカドお兄ちゃんにそんなに甘えちゃダメだからな。」
そう言って叱るけれど、元気そうなミカド君の姿に、僕は微笑んでいた。
ただ、
「そういえば、僕のベッドに飛び乗るなんて久しぶりだな。」
そう感じていた。彼は僕のベッドが大好きで、家の中では定位置だったはず。なのに、ここしばらくはむしろベッドの下に潜り込むか、小屋の中で小さく丸くなってばかりだった。
「そうか、痛みを訴える前から調子が悪かったんだ。早く気づいてあげられればよかったな。」
そう後悔した。そして、その後悔はそれからどんどんと大きく膨らむばかりだった。

数日後、また後ろ足の動きがたどたどしくなった。痛み止めの内服薬がなくなったからだろう、僕はそう思って、また獣医さんに相談した。
しかし、そう続けて痛み止めを飲ませるのも体に悪い、とのことで、痛み止めの他に、腰痛などに効くサプリメントをもらって、併用しながら様子を見ることになった。
食欲はある。でも、今まで床に置いていたお皿では食べにくそうだった。そこで、雑誌を数冊重ねてお皿を乗せ、食べやすい高さに調整した。
「そんなに腰が痛いのか?なあ、ミカド。お前がしゃべれたらなあ。」
そんなことを思った。
お散歩に連れていく。でも、歩きにくそうで、時折足がもつれる。小用で足を上げると、支えきれないのか、体が流れる。大きい方も腰が落ちてしまい、うまくできなくなった。
彼のそんな様子に、僕は涙が出てきてしまった。
元気に駆け回ったり、うれしそうにしっぽを振って僕に駆け寄ったり、それが当たり前だったミカド君。それが、日を追う毎にどんどん調子が悪くなってきている。
つらそうな彼の姿。なのに、彼はいつものように愛くるしい笑顔を僕に向けていて、僕を頼っている。
「ごめんな、ミカド。早く気づいてあげられたらよかったのに。」
ボロボロに泣きながら、彼を抱きしめた。
と、そんな時、こんな声が聞こえた。
「泣かないでよ、お父さん。僕もがんばるからさ。」
誰だろう、周りを見回してもそこにはミカド君しかいなかった。
「うん、僕だよ。ねえ、お父さん。僕の方こそごめんね。ちゃんとできなくなって。」
「ミカド…。お前、しゃべれるのかい?」
「心でね。お父さんだから心でお話しできるんだよ。」
「そうなのか?な、どこが痛いんだ?早く治してあげたいんだ。」
「わからない。背中かなあ?腰とか後ろ足かなあ?とにかくずっと痛いんだ。でも、お散歩には行きたいし。」
「わかった。じゃあ、もっとちゃんと診てもらおう。注射とか、がまんできるかい?」
「平気だよ。僕、お父さんといっしょにいられるなら、どんなことだってがまんできるんだから。妹分のサクヤだって、僕がいないと心配だしね。」
そう言って、前足を使って僕にすり寄ってきた。
僕は翌日、後ろ足が弱くなった犬のためのハーネスを買って、お散歩をすることにした。
「やった!お父さん!これなら動きやすいよ。」
ミカド君もうれしそうだった。
草むらの匂いを嗅いだり、辺りの景色を眺めたり、ゆっくりゆっくり歩きながら、本当に久しぶりに、気持ちよくお散歩を楽しんだ。
「お父さん、風がね、とっても気持ちいいよ!」
「そうか、ミカドは本当にお散歩が好きなんだよな。」
「うん!お父さんといっしょだと、とっても楽しいから。」
本当に笑顔いっぱいのお散歩になった。
ところが、帰宅すると、後ろ足の爪先が血に染まっていた。後ろ足をサポートしていたつもりなのだが、彼はすでに後ろ足をほとんど自由に動かせず、何度か引きずってしまって、爪を痛めていたのだ。
「ごめんな。ミカド。もっとしっかり見ながら歩かないといけないよな。」
すると、ミカド君は
「おかしいなあ、別に痛いとも思わなかったのに。」
と言った。
痛みがないって?いったいどういうことだろう?

次の日、いつもの獣医さんに紹介されて、より設備の整った病院に彼を連れていった。
「お父さん、大丈夫かなあ?」
「大丈夫さ。設備もいいし、悪いところをすぐに見つけて、すぐに治してくれるはずだよ。」
優しそうな獣医さんに出会い、問診の後、レントゲンを撮ってくれた。
レントゲン写真では異常が見られなかった。
「念のため、しばらくお預かりして、MRIなどを使って検査してみましょう。」
彼は入院することになった。
「ミカド。入院だって。」
「お父さんとはなれるのはさびしいけど、うん、僕、いい子にして検査を受けるよ。だから、安心してね。」
僕らはそう言ってそこで別れた。
そして、再来院した時に、獣医さんから思わぬ言葉を聞かされた。
「MRIを見てわかったんですが、脊髄に腫瘍です。」
腫瘍?癌なのか?
「大変珍しいところにできていて、レントゲンではわからないところです。すぐには見つかりにくい…。」
「その腫瘍って…」
「脊椎、つまり背骨の中にできているんです。だからレントゲンでは見つからない。その腫瘍が脊髄、つまり神経の束を圧迫して、下半身が利かなくなってきているんです。」
そうだったのか。椎間板ヘルニアなんかじゃなかったのだ。
「それを取ることはできないんですか?」
「とにかく難しい場所で。ここでは無理ですし、やっても精度が落ちます。それに県内でもそういった病院はなくって…」
「どこなら…、どこへ行けばいいんでしょう?」
「隣の県の大学病院です。」
そんなに遠くなのか。僕はまた後悔した。もっと早く気づいてあげていたら…。
そんな僕と獣医さんとのやりとりを聞いていたミカド君は、またそっと僕に話しかけてきた。
「お父さん。僕、行くよ!僕、絶対に治すから!お父さんとまた楽しくお散歩したいから!サクヤだって待ってるし。」
僕は彼の手術を決意した。

それからほぼ十日後くらいだっただろうか、大学病院での手術の予約がようやく取れて、彼を連れていった。
県外という遠い道のり。それまでのミカド君なら、途中で車酔いしそうなのに、彼はしっかりした様子で車に乗っていた。
大学病院の獣医さんからは、僕が預かってきたMRIのデータを見ながら、大変難しい手術であることや、腫瘍の種類や状態によっては、手術自体が成功しても余命は保証できない旨を知らされた。
「ミカド…。それでも…」
「うん!大丈夫!がんばる!」
その時のミカド君は、すでに下肢を動かすことができず、家の中では前足だけで体を引きずって歩いていた。仕事から帰ってきた僕に、前足で懸命に近寄ってきて、おかえりの挨拶をしていた。ここまで進行してしまっているが、今は手術の成功と回復を信じるしかなかった。
手術は翌日とのこと。長い手術になるかも知れないとも言われた。
「先生、お願いします。」
僕は彼を預けて家路についた。

帰宅後、僕はミカド君のことが心配で仕方がなかった。
と、また別の声が聞こえてきた。
「お父さん、ミカドお兄ちゃん、大丈夫でちゅか?」
それはサクヤちゃんの声だった。が、ミカド君のこともあったので、そんなには驚かなかった。
「サクヤ。お兄ちゃんはね、明日手術なんだって。」
「手術?」
「うん、悪いところを取ってくれるんだ。大変な手術なんだけどね、ミカドお兄ちゃん、がんばるってさ。」
「じゃあ、きっとお元気になって帰ってきまちゅね。」
「そう信じようよ。」
サクヤちゃんは、それから僕にすり寄ってきた。

翌日、手術の日。大学病院の獣医さんから手術終了の電話がかかってきたのは、夜の十一時半過ぎだった。朝の8時過ぎから始めての大手術だったそうだ。
「手術は終わって、ミカドちゃんの様態は今は落ち着いています。ただ、詳しいお話しは電話だけでは難しいので、来院できる時にいかがでしょうか。」
そこで、次の休日に行くことを約束した。
手術から5日後の日曜日に病院へ訪れた。
獣医さんに抱きかかえられたミカド君は、すぐに僕に前足を伸ばした。背中の毛は手術のためにすっかり剃り落とされていて、前足の一部も点滴か何かのためだろう、剃ってあった。
「へへ、お父さんの頭といっしょになっちゃった。」
つまらない冗談を言いながら、僕の腕の中で彼は甘えていた。
腫瘍の種類はまだ生研の結果が出ていないのでわからないそうだ。ただ、すべては取り除けなかったらしい。脊髄と腫瘍との癒着が激しく、脊髄自体にまだ残ってしまっている。
「ただ、えさもよく食べますし。おとなしくていい子ですよ。泣いたり吠えたりしないで、とてもいい子で。前足は元気で、私たちを見ると、前足だけで歩いてくるんです。」
そんな彼が僕の腕の中で甘えるような声を出した時は、獣医さんは初めてミカド君の声を聞いたと言って喜んでいた。
「お父さん。今日はお迎えに来てくれたの?」
「退院はもう一週間後だって。来週の休日には迎えに来るから。今日はこうやって抱っこしていてやるからさ。がまんしておくれ。」
「残念だなあ。でも、いいや。お父さんの腕の中、あったかいから。」
しばらく彼を抱きかかえていたが、明日の仕事もある、僕は後ろ髪を引かれる思いで大学病院を後にした。

翌週、また大学病院に行った。そして、生研の結果を聞かされた。
「悪性の腫瘍、つまり癌です。」
ショックだった。なぜならその悪性腫瘍が脊髄にまだ残っているからだ。
「たぶん、脊髄から生まれたもので、一番の根っこは脊髄の中にあります。そこではもう取ることはほとんどできなくて。」
「再発は?」
「可能性は大きいです。というより必ず再発するでしょう。そうなると、余命は一ヶ月か、というところで…。」
それでも、僕は藁にもすがる思いで聞いてみた。
「腫瘍はだいぶ取り除いたってことは、脊髄への圧迫はかなり軽減されてますよね?だったら、それまでしばらく後ろ足は歩くことが…」
「難しいかもしれません。腫瘍を取り除いてみましたが、脊髄自体は圧迫されてつぶれていて、三日月のようになっていました。それが元に戻ればいいのですが、長い間圧迫されてましたから。」
早く気づいてあげればよかった、またその言葉が頭の中をぐるぐると渦巻いていた。
「発見も手術も難しい場所です。それにペットはしゃべれませんから。ご自分を責めることはありませんよ。」
そんな慰めの言葉は僕には届いてこなかった。もっと早くから彼の動きや、いや、今ではあの声に気づいてあげられればよかったのだ。それができなかった自分が悔しくてたまらない。
ミカド君が僕のところに連れてこられた。
「お父さん!帰れるんだね!やった、うれしいよ!」
僕は彼を抱きかかえ、涙をこらえながら
「ああ、帰ろう。そして、またお散歩しような。」
そう彼に伝えた。

足を上げて小用を足せない彼には、おむつが必要になった。でも、前足は元気だ。仕事から帰ってきた僕を以前と同じように下肢を引きずって、うれしそうな顔で近寄ってくる。「お父さん。お帰り。ねえ、お散歩行こうよ!」
「ああ、行こうな。」
僕は、あの後ろ足の弱った犬のためのハーネスをつけて、ミカド君をお散歩に連れていく。サクヤちゃんもいっしょだ。サクヤちゃんはミカド君に気遣いながら、ゆっくり歩いている。
「ミカドお兄ちゃん。大丈夫でちゅか?もっとゆっくりでもいいでちゅよ。」
「平気だよ。僕の前足はこんなに元気なんだから。」
とは言っても、後ろ足はハーネスで宙づりになったままだ。
「なあ、ミカド。犬用の車いすっていうのがあるんだ。それ、作ってもらおうか?」
「ホント?それだと、今より自由にお散歩できるかな?」
「ああ、前足がそんなに元気なら、きっと今より楽しいお散歩になるさ。」
そして、僕は時間を見つけて、犬の車いすを作っている工房を、ミカド君を連れて訪れた。
腫瘍のせいで以前よりやせていたミカド君。採寸で胴回りや腰回りなどを調べたが、その結果に少々驚かされてしまった。
「ミカド、ずいぶんやせちゃったな。」
「お父さんが太りすぎなんだよ。えへへ。」
車いすができるまで二週間はかかるとのことだった。
「待ち遠しいなあ。早く車いすを使って走り回りたいや。」
「ああ、そうだな。お父さんも君に負けないで、しっかり走ってやるぞ。」
「サクヤも僕のペースを気にしないでお散歩できるしね。早く二週間たたないかなあ。」
彼はとびきりの笑顔を僕に向けていた。
そして、翌日の夕刻。
僕は仕事から帰ってきたが、ミカド君は走り寄ってこなかった。何か不吉な感じがして、中に入っていくと、彼はすまなそうな顔をして僕を見つめた。
「ごめんね。前足、立つんだけど、歩けなくなっちゃった。」
ミカド君は上体だけを起こし、それ以上は体を動かせなくなっていた。
悪性の腫瘍は、再び、そして確実に彼の体をむしばみ始めていたのだった。

それからの彼の病状は徐々に進行していった。
まず、おむつをしていたが、尿がおむつにたまらなくなっていた。自分で尿をコントロールできなくなっていたのだ。そして、尿道が狭くなり、彼にはカテーテルが必要になった。
僕は獣医さんの指導でやり方を覚えた。
「お父さん、ごめん。僕のおしっこのこと、お父さんにやらせちゃって。」
「バカだなあ。これくらいなんでもないさ。」
カテーテルで尿を取っている時の彼はおとなしかった。
「でも、汚いじゃないか。」
「お前のためだよ。お前のためなら、何だってできるさ。」
「ウンチだって、もう自然と出ていて、出たら教えたいんだけど、わからなくって。ホントにごめんね。」
「謝らなくていいんだよ。お父さんだって、もっとお前のこと、早く気づいてあげられたら…」
僕はそう思う度に涙がにじんでくる。
「お父さん、また泣いてる。」
「しかたないだろ。僕は…僕は、今まで何度もミカドに救われてるんだから。だから、だから、こんなの何てことないんだ。お前のためだったら、何だってできるんだから。」
僕が病気の時、彼は僕にずっと寄り添ってくれていた。僕がさびしさや悲しみを感じていた時、彼はずっとそばにいてくれた。何かで涙を流していれば、心配そうに僕の顔を覗き込み、それから僕にくっついて丸くなって眠っていた。
僕は彼に助けられてばかりだった。こんな僕の所にいて、心配ばかりかけて、本当にミカド君は幸せなのだろうか、そう思うことが何度もあった。
そして、この腫瘍だ。なぜ早く気づいてあげられなかったのか?自分を責めるばかりだ。ミカド君に申し訳ない気持ちでいっぱいなのだ。獣医さんたちは、発見が難しい場所だと言ってはくれるが、ベッドが好きなくせにベッドに上がってこなかった、そんな少しの異変でも気づいていれば、もっと何とかなったはずなのだから。
「ごめんな、ミカド。もっとお父さんがしっかりしていれば、こんなつらい目に遭わなかったのにな。」
「そんなことないよ。僕、お父さんが大好きなんだ。お父さんこそ謝らないでよ。僕、お父さんといられたら、それで幸せなんだよ。」
「ミカド…!」
支えるだけで精いっぱいの前足を僕の手で補助しながらご飯を食べさせてあげたり、水を飲ませてあげたり。食欲は落ちないし、薬もしっかり飲む。
彼は生きようと一生懸命だ。彼はあきらめることは決してない。
だから、僕は一生懸命に、その生きようとする気持ちに応えた。
そして、術後一ヶ月を過ぎた。獣医さんからの余命宣告を、少し乗り越えた。

ドッグスリングが届いた。抱っこ袋のようなものだ。車いすがダメなら、抱っこしてでもお散歩に連れていきたかった。
本来なら七~八キロはあるはずのミカド君の体では、ドッグスリングは狭苦しいものだ。だが、後ろ足の筋肉も落ち、やせ細った彼の体は、案外すんなりとその中に収まってしまった。
スリングから顔と前足を出して、辺りの景色を嬉しそうに眺めているミカド君。サクヤちゃんも自分のペースで歩けるし、このドッグスリングには大変重宝した。
また、スリングに入っている姿は、他のお散歩の人の目にとまり、優しい言葉をかけてくれる。
「がんばってるな。」
「お散歩ができてうれしいね。」
頭を撫でてもらったり、他の犬のお散歩の人からはおやつをもらったり。ミカド君には友だちがたくさん増えた。
「えへへ。今までのお散歩より楽しくて、得しちゃった気分だよ。おやつもらえるなんて、すごいや。」
「おいおい、そんなのをお目当てにお散歩してるんじゃないぞ。」
「わかってるよ。でも、風が気持ちいいし、お散歩の人たちはみんな笑顔だし。ずっと地面の近くからものを見ていたでしょ?お父さんの目線に近い感じでものを見るのも新鮮だし。とってもうれしいよ!ありがとう、お父さん。」
「どういたしまして。これからも、こうやってたくさんお散歩しような。」
「うん!」
「ワタチもいっしょでちゅよ。」
僕たちの会話を聞いていたサクヤちゃんが割って入った。
「ミカドお兄ちゃんのお散歩には、ワタチが必ずついていきまちゅからね。」
「サクヤもおやつ目当てかい?」
「そんなこと、ありまちぇん!」
ふくれっ面のサクヤちゃんを見て、僕とミカド君は笑っていた。

もうすぐ手術から二ヶ月が経とうとした日の朝だった。
僕はミカド君の妙な息づかいで目が覚めた。
「ミカド?ミカド、どうしたんだ?」
「お父さん。あのね、へへ、前足に力が入らないや。体を起こせなくって。」
彼は前足で体を支えることができなくなっていた。それに、目も少しおかしい。眼球の三分の一くらいに白い膜のようなものが見える。
「ミカド、その目…。僕が見えるかい?」
「なんとか。でも、今までに比べるとあまりよく見えないよ。」
「そんな…。」
「でもさ、お散歩には行けるよね?お散歩、楽しみなんだから。」
彼を抱きかかえて、お散歩に出かけた。でも、今まではスリングに入る時に少し前足をばたつかせていたのに、何も動かそうとしない。ほんのわずか力が入るだけだ。
大学病院を紹介していただいた獣医さんの所へ連れていった。
そこでまず体重を量ると、六キロにも満たなかった。八キロほどあった体重もかなりやせ衰えてしまっていた。
「目は脱水症状でしょう。足は、やはり再発して症状が進んだものと。それでも、ミカドちゃんはよくがんばってますよ。たいしたものだ。」
脱水症状。僕はちゃんと水をあげていると思っていた。だけど、彼をむしばんでいる腫瘍は、それだけの水では足りなかったのだ。
リンゲル液を首の所に注入することになった。そのやり方を教えてもらった。
注射の苦手な僕が、彼に針を刺してリンゲル液を注入するなんてことは思ってもみなかった。しかし、僕は躊躇することなくその作業を行っていた。
「ミカド。痛くないか?」
「平気だよ。ちっとも痛くない。ただ、首の後ろに水がたまっていく感じはちょっと変だけどね。」
「そうか、ごめんな。うまくできなくて。」
「平気だってば。それより、お父さんこそ注射が苦手なのにこんなことやらせちゃって。ごめんね。」
「謝るなよ。それに、何で僕が注射が嫌いって知ってるんだ?」
「そんなのわかるよ。僕が狂犬病とかの注射を打ってる時に、よく目を背けてたじゃないか。バレバレだよ。」
「そうだったか?」
「そうだったよ。なのに…、ありがとう。」
「何言ってるんだよ。こんなの、お前のためなら何てことないって。」
この日を境に彼の食欲はがたんと落ちた。水も進んで飲まなくなり、水の入った器から顔を背けてしまう。
それでも、ご飯と一緒にあげていたバナナは食べた。彼はバナナが大好きなのだ。
「バナナは別腹だからね。」
ゆっくり、でもおいしそうにバナナをかみしめる彼だった。

それから五日後だった。
ミカド君の様子を見ていた家族から、僕の携帯に電話が入った。
呼吸がおかしい。早く帰ってきてあげてほしい。
僕は仕事を早退させてもらって彼の元に急いだ。僕が着くと、彼は落ち着いた様子だった。呼吸も乱れていない。ただ、明らかに元気がない。
「ミカド。ただいま。」
「お父さん、おかえり。今日は早かったんだね。」
「お前の様子が気になってな。」
「大丈夫だってば。心配性だな。」
心配にもなる。この時には、もう前足にも力が全然入らなくなっていたのだ。抱き上げても首の力もあまり入らない。とてもスリングに入れてお散歩なんてこともできなくなっていた。
「病院、行くか?」
「お父さんが連れてってくれるところのお医者さん、みんな優しいからね。うん、行くよ。そして、早く元気になるんだ。」
「わかった。急ごう。」
彼を車に乗せて病院に向かった。
食欲が落ちていることを伝えると、缶詰めのエサを水に溶いて少しずつあげる方法を教えてもらった。
「この缶詰め、ワンちゃんにはおいしくできてるんです。ちょっとやってみましょう。」
犬歯の後ろから少しずつ流し込む。おいしそうにペロペロしている。
「やってみますか?」
獣医さんに勧められて、僕も試しにやってみた。
「どうだい?」
「うん、おいしい。これなら食べられるよ。でも、バナナの方がいいなあ。」
獣医さんに聞いてみると、バナナもしっかりすりつぶして少しずつあげればいいだろうとのことだった。
「よかったな。バナナ、いいんだってさ。」
「やった!」
力なく、でも明るく彼は微笑んだ。
病院でリンゲル液を注入してもらって、帰路についた。
車の中でミカド君が話しかけてくる。
「そういえば、お父さんの車で、いろいろ連れてってもらったなあ。海とか山とか、河原の土手とか。」
「ああ、そうだな。」
「また行きたいなあ。」
「どこがいい?」
「お父さんが連れてってくれるところなら、どこだっていいよ。お父さんがいっしょなら、どこだって楽しいもん。」
「ああ、わかった。今度の日曜日、海に行こうか。」
「ああ、いいなあ。前に行った時は、波をかぶってびしょ濡れになったっけ。」
「そうだったな。」
「楽しみだなあ。」
こんな体でも、彼は絶望していなかった。だから、僕はまだまだ彼の一生懸命に、一生懸命で応えよう、そう思っていた。

家に着いて、彼をベッドに寝かせてあげた。そして、彼にあげるために、バナナをやわらかいペースト状にしていた。また、サクヤちゃんのためのご飯も準備して早速食べさせてあげた。
「お~い、ミカド。大好きなバナナ、やわらかくしておいたぞ。」
そう言って彼が寝ているベッドに来ると、彼は明らかにおかしかった。それまで流したこともないようなよだれを、ダラダラと流してベッドを濡らしていた。
「おい、ミカド!」
でも、ミカド君はバナナの匂いをかぎつけたのだろう、それをほしがった。
「大好きなバナナだ。お父さん。一口、ちょうだいよ。」
言われるまま、ほんの少し犬歯の後ろに流し込んであげた。
「おいしい。ねえ、もう一口。」
もう一度犬歯の後ろに。
すると、ミカド君の呼吸の間隔が長くなってきた。
少し苦しそうで、でも、穏やかな顔で。
彼の呼吸の間隔が開く毎に、呼吸も浅くなっていく。
「ミカド!ミカド!」
僕は彼の名を何度も叫んだ。
「お父さん…。お父さんの腕の中…、あったかいや。」
彼を抱きかかえて彼をずっと見守った。来るべき時が来たのだ。僕はありったけの思いを言葉にしていた。
「ありがとうなあ。本当にありがとうなあ。がんばったよなあ。つらかったよなあ。でも、今日までちゃんと戦ってきたんだよなあ。えらいなあ。お前はホントにえらいよ。ありがとうなあ。ごめんな、早く気づいてあげられなくて。」
それから小さなため息のような息をして、それを最期に彼の呼吸は止まった。
それと同時に、サクヤちゃんがワンワンと吠えた。
サクヤちゃんにもわかったのだ。彼の最期の時が。
僕は彼を抱きかかえたまま、ただただ涙を流していた。

早く気づいてあげればよかった。
それは何も腫瘍のことばかりではない。
彼は、最期の時を、僕と二人っきり、寄り添うように迎えたかったことに。
それほどまでに、僕のことを大好きでいてくれたことに。
それはわかっているつもりだった。でも、僕が思っていた以上に、彼は僕を愛し、信頼していたんだ。だったら、もっと早く寄り添っていれば、もっともっと彼を抱きしめてあげられば…。そんな激しく深い後悔が、僕の心の中に渦巻いている。
彼は僕の腕の中で息を引き取った。彼はそう決めていたのだ。だから、苦しい中、ずっと僕のことを待っていたのだ。
そう考えると、申し訳なくてしかたがない。そして、それ以上に感謝の気持ちでいっぱいだった。
こんな僕の腕の中を選んでくれて、こんな僕の家族でいてくれて、どこまでも信頼してくれて、どこまでも愛してくれて、感謝の思いがあふれるばかりだ。その思いの分、僕の涙もあふれて止まらなかった。
いや、今でも止まらない。
ちょっとしたことで彼を思い出せば、どこであろうと涙があふれ出てしまう。買い物をして、犬のエサに加える野菜も、ついつい今までと同じ分だけ買おうとしてしまう。それだけ彼が僕の生活の中にしっかりと息づいていたのだ。その生活が変わってしまったことにも、彼を思い出し、涙がにじんでしまう。
でも、いつまでもそんな僕でいることを、ミカド君は決して望んでいない。彼にとって僕は頼もしくて優しくて、そして笑顔を向けてくれる存在だったのだ。泣いてばかりで笑顔を失った僕を見たら、彼は怒り出すだろう。
「お父さん。サクヤが心配してるぞ。」
そんな声が聞こえるようだ。

わずか三ヶ月半の闘病生活だった。それでも、余命一ヶ月を二ヶ月まで延ばしてミカド君は生き続けた。ただ、あともう一ヶ月ほど生きてくれれば彼の誕生日を迎えられたのだけど。
たぶん、彼は僕のことを、虹の向こう、天国の入口辺りで見守ってくれているはずだ。
僕は彼の分、いや、それ以上に生きることに一生懸命でいようと思う。
彼の一生懸命には、まだまだ一生懸命で応えなければ。
そして、僕が天寿を全うした時、きっとシッポを元気よく振って、笑顔いっぱいに僕の所に駆け寄ってくれるに違いない。
その日まで、ずっとずっと先の話になるけれどさ、ミカド、その日まで、ちゃんといい子で待ってるんだぞ!

画像


画像


画像


画像


画像











ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック